『かくかくしかじか』マンガ大賞2015受賞作品
概要:宮崎県串間市出身の漫画家、東村アキコの自伝マンガ。
高校生だった作者がいかにして美術大学に入学し、漫画家になったか。恩師である日岡兼三(作中では日高先生)とどのような交流があったかが描かれます。
日岡兼三は終戦直後の1946年に新京(現長春)で生まれて、おそらくは幼少期に満州引き揚げ組と共に来日。作中では一切描かれていませんが、既婚者だったとのこと。来歴を詳しく追えば、作中での印象とはかなり違った人物像が見えてくるでしょう。作中の描写だけを取り出しても、これはパートナーの方は金銭面でも私生活でも本当にご苦労が絶えなかっただろうな、と。日岡の享年も57歳とのことで。若い。そして、がん治療も拒否して、ずっと自宅療養ですよ。
この作品は、「全てが本物」である日高先生と、本物になり切れない凡庸な人々(作者含む)の対比、日高先生の恩義に報いれなかった後悔、作者が経験してきたコミュニティや風俗をかいつまんで紹介するエッセイマンガ、の概ね三要素で成立しています。
私は「本物」の人間にはあまり人として興味が持てません。確かに技術や知識、業績は輝いている。でも、その人が持つ専門性ほどにはその人の人格は興味深くないから。その人が持つ技術や知識を洗いざらい引きだしたら、お互い用済みになってしまうから。
作品の中心にいる日高先生の行動原理は単純明快。「描け」。日高先生は、自分と他人の描く技術の向上以外一切興味が無い超人として描かれます。
長い目で見た時に画家として大成すること、させることにしか興味が無い。自分も誰かに愛情を向ける時、長い目(10年後とか50年後とか)で見てその人が幸せになるかしか興味が無いので、この極端さは感覚的に理解できます。目先の利害や損得に埋没した人間関係にあまり興味が持てないので。その人の幸福にとって自分が必要かどうか、助けになれるか、が深く関わりを持つ基準になります。他に代えが効くなら、自力で道を切り拓けてしまうなら、関わりたいと思っても必要以上には関わらない。自分の感情は我慢すれば済むので。色々言いましたが、自分を本当に必要としてくれる人のためにこそ何かしたい、というのはまあ人情でしょう。そうでなかった人のことは忘れてしまうべきなのでしょう。
何かを徹底する時に、理屈は要らないのです。ただそうすると決めるだけ。それは、根性論や精神論のような目的に従属した方法論の一種ではなく、人生を従属させる指針なのです。「描け」にはそういう有無を言わせない決心が宿っている。だから日高先生には嘘がないのです。日高先生は「描く」と決めた人なのです。
あとチキン南蛮は笑った。作者のチキン南蛮より、日高先生のカツオの刺身の方が作者の彼氏の心を捉えている、という真贋の対比になっていて、まあ自分もカツオの方が好きだと思いますが(取れたての魚よりおいしい食べ物ってそうそうないでしょ)。チキン南蛮と聞いた時はなんでって思ったけど、宮崎あるあるだったのか、と。今回読み返していての気付き。
医事課千野。
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